せせらぎ
その2
作:mi_min 作品の著作権はすべて書いた本人のものです。
 この度の一夫の帰省は、召集令状がきたからだというのである。

しかも、入隊日が3日後にせまっていた。

 「そんな・・・」

 どこか遠くに感じていた戦争という現実が、いきなり翔子の前

に立ちはだかった。天国から地獄へと突き落とされたような思い

であった。戦局が厳しいという事は翔子でも知っていた。そんな

折に一夫が・・・・それでも、夢にまで見ていた一夫との結婚話

に、不安の中にも嬉しさを感じていた。

 一夫が出征する前夜、二人は仮祝言をあげた。一夫の両親は勿

論大喜びであったが、翔子の両親はシブシブの承諾であった。無

理からぬことである。 突然の結婚話のうえ、一夫が入隊する前

に仮祝言をあげたいというのである。しかも日にちがないので今

日明日の話だというのであるから、翔子の両親にとってはたまっ

たものではない。一夫が帰ってきてから結婚しても良いのではな

いかといくら翔子を説得してみても、翔子は聞き入れなかった。

 翌朝、一夫を見送った翔子は新しい生活に早く慣れようと夢中

であった。新婚の甘さも何もなく、一夫もいない。それまでは何

不自由なく生活していたのが、がらりと変わってしまったのであ

る。それでも毎日の出来事ひとつひとつが翔子には新鮮で楽しく

感じられた。

 一夫が出征してから1年4ヵ月たった夏の暑い日に、終戦の玉

音放送があった。敗戦に涙を流している人がいたが、翔子には戦

争に負けたことなどはどうでもよかった。敗戦の悲しさよりも一

夫が帰ってくるという喜びの方が大きかったからである。あと何

日待てば一夫が帰ってくるのだろうか・・・翔子の頬にひとりで

に笑みがこぼれた。

 一夫が出征してまもなく一夫の父親が脳溢血で倒れてしまい、

身体を動かす事が出来なくなってしまっていた。父親の世話は母

親が付きっきりでしていたが、生活をしていく為の収入が途絶え

てしまっていた。翔子は実家に頼み込んで働かせてもらい何とか

生計を維持していた。翔子の結婚に最初から難色を示していた実

家の両親は、そんな翔子が不憫でならなかった。労働報酬の他に、

何かと娘を気使ってお金やら食料やらを持たせていた。それがか

えって翔子にとっては肩身の狭い思いをさせていた。しかしなが

らそれで生活が大いに助かっているのは事実である。まだ十代の

翔子にとって、家族を支えるだけの収入を得る事は並大抵の事で

はなかった。

 それでも、一夫が帰ってくる・・・という思いがひとりでに翔

子の気持ちを浮き立たせていた。実家の両親や弟にまでもからか

われるくらいであった。実際には、舅の世話に加え、最近では病

気がちになっている姑をかかえて、かなり生活が大変になってき

ているにも関わらずである。

 終戦後の物資の不足は、さすがの翔子の実家にも影響を及ぼし

ていて、翔子に給料を払うのが精一杯になってきていた。翔子は、

生活のために朝早くには畑を耕し、昼には実家で働き、その合間

に舅と姑の世話をしてと、朝から晩まで身を粉にして働いていた。

 あの、終戦の玉音放送からもう五年半。一夫はまだ帰ってこな

かった。何の音沙汰もない。さすがに翔子の顔からも、しばらく

前からほほえみが消えていた。身体の不自由な舅を残して、姑は

去年の夏に他界していた。そして今度は実家の父親が他界した。

何かと頼りにしていた父親の死は、まるで全身から力が抜けてい

くような思いだった。それでも、抜け殻のようになってしまった

母親を支えていかなければという思いが、翔子を奮い立たせた。


 翔子の結婚は、苦労の連続であった。

 たった一晩だけの新妻だったからではない。それは珍しいこと

ではなかった。恋人や婚約者を戦地に送り出す前に祝言をあげた

カップルは、他にも大勢いたからである。

 翔子の不幸は戦後にあった。一夫の消息が知れないままなので

実家に帰ることもできず、また病気の一夫の両親を放っておくこ

ともできない。しかも女学生の時に結婚して以来、ずっと若い翔

子一人の肩に生活の全部がのしかかっていたことが不幸であった。

それでも実家の父親が生存中は何かと力になってくれたが、後を

継いだ弟ではそうはいかなかった。母親は、父親を亡くしてから

というものまるで元気がなくなり、翔子に気を配る気持ちも失せ

ていた。

 翔子は必死になって働いた。実家の家業が危うくなったときに

も、弟を助けて何とか持ちこたえさせた。

 辛いとき、悲しいとき、嬉しいとき・・・何かにつけて、翔子

は一夫に結婚を申し込まれたときのあの土手を歩いた。ここの景

色はあの時と何も変わってはいない。川面を見るたびに一夫の顔

を思い出し、川を渡って吹く風が一夫の声を思いださせた。せせ

らぎはいつも変わりなく、ただ時だけが流れていた。

 舅が亡くなり、相次いで実家の母親が亡くなった。

 翔子は今でも実家で働きながら一人で暮らしている。

 一夫が出征してからもう30年・・・ 時代は急速に変わって

いた。隠れて聞いていた洋楽は道端にあふれ、若者達は堂々と腕

を組んで歩いている。

 あれからずっと待ちつづけていたが、一夫はとうとう帰ってこ

なかった。再婚話も何度かあったが、一夫の両親のことを考える

と再婚することもできなかった。それでもたった一度の一夫との

デートの思い出が翔子を支えていた。結婚を申し込まれた時の喜

びが、いまでも翔子の胸を熱くする。

 ぼんやり窓の外を眺めている翔子の脳裏に、一夫に聞かせてもらった洋楽のメロディが繰り返し繰り返し流れていた。

 ・・・完・・・
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